Posted on 2014年8月18日
by 河野順一
「先生はえらい」 (ちくまプリマー新書) [新書]
内田樹 著
今時の小学生は、受験の現代国語の読解で、こんな文書を読んでいるのだと、職員が教えてくれた。表題の書籍につき、興味をそそるくだりがあったので紹介したい。
「学ぶというのは創造的な仕事です。
それが創造的であるのは、同じ先生から同じことを学ぶ生徒は二人といないからです。
だからこそ、私たちは学ぶのです。
私たちが学ぶのは、万人向けの有用な知識や技術を習得するためではありません。自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実を確認するために私たちは学ぶのです。
私たちが先生を敬愛するのは、先生が唯一無二性の保証人であるからです。(中略)弟子たちは決して先生から同じことを学びません。ひとりひとりがその器に合わせて、それぞれ違うことを学び取ってゆくこと。それが学びの創造性、学びの主体性ということです。」
将来を担うリーダーたちは、なかなか難しい哲学に触れている。小学生の学習内容と侮れない内容である。学習項目におけるレベルと、学習に対する意欲が兼ね備わっていなければ、学習効果を上げることは難しいことは言うまでもない。
著者が述べるように、人生の中で出会った師を敬愛するのは、「自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実」の生きた保証人を得る為なのである。
そして著者は、師弟関係の基盤につき、「この人の言葉の意味を理解し、この人の本当の深みを知っているのは私だけではないか、という幸福な誤解」と述べている。
思うに、そうした幸福な誤解が、その範疇に収まっている限りは正しい学びの方向にベクトルは向くのであろうが、そこに自己本位な邪念が存在する限り、究極、人間関係を破たんさせ、自滅の方向へベクトルが向く。少なくとも、師への恩を忘れ、未だ到底その域に達していないにもかかわらず、「出藍の誉れ」を吹聴する不届き者は、「自分がこの世界でただひとりのかけがえのない存在であるという事実」の生きた保証人を失うことになる。
深く考える習慣は、子供のころから必要である。そういた意味からすれば、中学校受験の功罪は賛否両論あるものの、子供に学びの主体性がある限り、手助けするのが周囲の大人の役割ではないかと思う。