学びの本質を知る 7

【学ぶ姿勢】
学ぶ姿勢で忘れてはならないことは、「受け身」である。かつて、私は、セミナーでこの話を良くした。
いくらいい話を聞いても、自分の偏った見方の「水」で、心というコップを満たしていたら、実のある内容を習得できない。
耳寄りな話がコップからこぼれ出てしまうからだ。
したがって、人から何かを学ぼうとするときは、一度コップの水を空にしてから聞かなければならないというものだった。
それ同様、学びには「受け身」が大切というのである。曹洞宗の開祖、道元は、「正法眼蔵」という著作を残している。
その中に、鎌倉時代、師匠から仏道を学ぶ、弟子たちの姿が描かれている。弟子たちは、受け身になって必死で師匠から知識を吸収しているのである。
「仏道をならうとは、自己をならうとは、自己を忘れることである。自己を忘れるとは、よろずのことどもに教えられることである。
よろずのことどもに教えられるということは、自己の心身をも、他己の心身をも脱ぎ捨てることである。」
道元は、仏教を学ぶということは、自分を学ぶということであるという。自分を学ぶということは、自分を忘れ捨て去ることだともいう。
そして、受け身になって学べるかどうかが、学習の本質なのだと説く。そうやってのみ、本当に良いものが師から弟子に伝わるというのである。
これは、何も仏教に限ったことではない。ジャンルを問わず、学びの本質だということを、ここに強調しておこう。
「学びのコツは、自分が師と同じことができるようになるまで、何度でも繰り返し行動することの内にある。
徹底的に反復することで、エッセンスを細大漏らさず吸収するのだ。」
ここで忘れてはならないことは、師の背中を見て学ぶという姿勢である。
いくら師が丁寧に教えてくれるといっても、言葉にできないことは多かれ少なかれあるものだ。
そういった言葉で尽くすことのできないノウハウは、師のしぐさから徹底的に盗むしかない。
再度言う。成功するには、師から素直に学べるかどうかがすべてを決する。師を疑ってはならない。
袂を分かち、飛び立つのは、師から多くの知恵を、全部を吸収してからでも遅くない。それまでは、とことん師に従って学ぶ方が賢い。
もはやこれは戦略である。同時にそれが、成功への最も近道だ。
全くもって、徒然草に述べる兼好法師の、「偽りても賢を学ばんを、賢といふべし」に通じるのである。
いよいよ、これから、本題に入る。
知識を吸収することに不断の努力を惜しまない、新たな七人を紹介しよう。業に対する、前向きな彼らの姿勢には、ただただ脱帽である。
様々な経験をされ、すでにベテランの域に達しつつある彼らの体験をもとに、事業場を規律する本物の就業規則とは何かを、今、ひも解こうではないか。

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