二重の基準論(ダブルスタンダード)

二重の基準論(ダブルスタンダード)

「二重の基準とは個人の人権、特に自由権に着目して、
自由権を精神的自由権と経済的自由権に分け、
前者に対する国の制約については、司法府が厳しい基準で審査し、
後者については若干緩やかな基準で審査するというものである。
前者においては、国の制約が認められにくく、
後者においては、国の制約が認められやすくなる。
簡単な例を挙げる。駅前でたこ焼き屋であるAが屋台を出して営業しているとしよう。
そして、ここにはたこ焼き屋の他、次回の選挙のために演説をしているBもいる。
そこに警察官がやってきて、
「公共の福祉のため、この場所を使用禁止とする。すぐ出ていくように」
とABを追い出した。
この場合、Aは職業選択の自由に制約を受け、Bは表現の自由に制約を受けている。
どちらも、同じく
憲法の保障する人権が警察によって制限が加えられていることに変わりはない。
すなわち、警察の行為によって、
Aはたこ焼き屋を営業して利益を上げる権利が侵害されたことになる。
営業行為を自由に行うことは、
後述するが憲法22条1項の職業選択の自由から導かれる営業の自由であり、
経済的自由権の一つである。
これに対して、Bは選挙活動をすることができなくなってしまった。
これはまさしく選挙活動の自由を制約するものである。
選挙活動の自由は、自己の政治的意思を表明する行為で、
表現の自由(憲法21条)によって保障される。
表現の自由は精神的自由権の一つである。
さて、警察官の行為はこれらの権利自由を制約する行為であるが、
二重の基準によると、たこ焼き屋の営業の自由への制約は認められやすく、
選挙候補者の選挙活動の自由への制約は認められにくいということになる。」
 
これは拙著の抜粋である。
今、コロナにより緊急事態宣言が出されてはいるが、実に中途半端だ。
そのもどかしさを、上記のダブルスタンダードに見た気がする。
政府は、人の命よりも、経済を重視しているように見えるが、いかがか?
超法規的措置として、国民の行動に制限を加え、
諸外国のように都市を封鎖すれば、コロナは確実に鎮静化する。
しかし、それができないのは、経済活動がストップするからだ。
長期的な視野に立てば、一時的なストップは、早期回復につながる。
それができない、無責任な政府な対応に怒りに近いものを感じる。
生命と、経済、どちらが大切か?
二者択一なら、当然、「国民の命」である。
国民が生きていれば、経済は後付けでいか様にでもなる。
しかし、国民がいなくなってしまえば国家はそこまでである。
その選択が、その決断ができない政治家に国政を任せている国民は不幸だ。
こんな時、田中角栄ならどうしただろう。
実にもどかしい。

□□□ランキングに参加中です□□□
□□□クリックお願いします!□□□


社会保険労務士 ブログランキングへ </a><br /><a href=社会保険労務士 ブログランキングへ

Comments are closed.