テレビ東京、小山田圭吾主題歌ドラマ「サ道」の楽曲差し替え(報知新聞社)
なぜかしっくりこない。
私は、この方と直接会ったこともないし、話したこともないので、
コメントできる立場にはないが、
不適切な発言は、30年近く前のもの…というのが引っ掛かる。
接着していれば、制裁も頷ける。
その間に、この方は考え方が変わっていないのだろうか。
当時の価値観を、現在の価値観で測っている点がしっくりこない。
確かに発言は不適切だろう。
しかし、過去の文学作品などにも差別用語はつきもので、
版を重ねた最近の書籍には、
「本作品には差別用語が頻出しますが、
作品が発表された当時のままに表現しておりますのでご了承ください。」
などとの注釈が入っている。
今は許されない差別用語が入っているからといって、
文学作品は、作品の価値がなくなるのか。
逆に、チャタレー事件は、
イギリスの作家D・H・ローレンスの作品
『チャタレイ夫人の恋人』を日本語に訳した作家伊藤整と、
版元の小山書店社長小山久二郎に対して
わいせつ物頒布罪が問われた事件であり、
わいせつと表現の自由の関係が問われた。
結論として、最高裁判所は昭和32年3月13日に上告を棄却し、
有罪判決が確定した。
この『チャタレイ夫人の恋人』が現代に発表されていたら、
有罪判決は妥当なのだろうか。
その様なことをつらつら考えると、
常に品行方正でいなければならない、
過去の過ちが許されない社会に息苦しさを感じる。
長く生きていれば、誰だっていろんなことがあるだろう。
そうした過去を清濁併せ呑む部分も必要に思う。
「水清ければ、魚住まず」という言葉もある。
先にも述べたが、
私は、本人を直接知らないので、
コメントできる立場に無いのかもしれないが、
過去の評価を、当然のごと、
く現代の物差しで測ることに、大いなる疑問がある。
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