相手の理不尽かつ無礼な態度にいかにして対処すべきか。
書物をひもといて、その答えを探してみた。
論語の「憲問」第十四の36に以下のようなくだりがある。
或曰 以徳報怨 何如 子曰 何以報徳 以直報怨 以徳報徳
「あるひといわく、とくをもってうらみにむくゆる。いかん。しいわく、なにをもってとくにむくいん。なおきをもってうらみにむくい、とくをもってとくにむくいん。」
ある人が孔子に尋ねた。
「徳をもって怨みに報いたらいかがでしょうか?」と。
孔子は答えた。
「そんなことをしたら、一体何で徳に対して報いることができるのだ?
正しさをもって怨みに報いるべきであり、徳に対してこそ徳に報いるべきなのだよ」
おそらく、ある人の質問は孔子に認めてもらおう、褒めてもらおうと期待してのことだったのだろう。
「徳」を「寛大な心」くらいの意味に捉え、「怨みに対して寛大な心を示せば良いのでは」と質問したのかもしれない。
しかし、孔子は「徳」を重んずるがゆえにそのような安易な考えを言下に否定した。
ここで、「徳」について詳しくは触れないが、儒教の「五徳(五常)」とは「仁義礼智信」のことである。
これだけでも「徳」という言葉の深さが理解できるだろう。
孔子は「徳」が大切なものであるがゆえに、それは「徳」に対してこそ報いられるものなのだと言ったのである。
「怨み」に「徳」で報いたら、だれかに「徳」を示されたとき、返すものがなくなってしまうではないか、ということである。
「怨み」には「直き」、つまり正しさをもって対処せよと孔子は言う。
正しさとは何か、それは公平無私の判断である。
悪に対し、憤りを感じ、悪を憎む、これは人間の素直な感情である。
理不尽や非道に対し、まずもって寛大な心で報いろというのでは、人間の素直な感情を無理に押し潰し、歪めてしまう。
それは新たな「怨み」を生むばかりである。
憤りの心、憎しみの心は、悪に対する反作用である。悪に憤り、悪を憎むのは人として当然である。
だが、人はその心を、正義という公平無私なものに昇華させて対応しなければならない。
それが、孔子の言う「直きをもって怨みに報いる」の意味だろう。
出版社に対して行われた、表現の自由を根本から否定し、生命というこの上もない貴重なものを奪ったフランスでのテロ行為に対して、各国の人々は連帯して怒りを共有し、正義の実現を訴えた。
300万人を超えた人々の行進は、「怨み」ではなく「直き」というものを身をもって示したのである。
理不尽や非道に対しては、まず正義をもって報いなければならない。
では、正義とは何なのか。
この続きはまた語ることとしよう。
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